プロローグ
富士山の麓に広がる森。
青海原樹海。自殺の名所として有名な森。
毎年多くの人がここで自らの命の灯火を消していく。
そんな人の一人がまたこの樹海へと足を踏み入れた。
「やっぱり、私なんぞあの会社には必要無かったのか……」
いかにもサラリーマンといった風のその男は適度な木にかけた縄に手をかけながら嘆息をもらした。
「あれだけ会社に尽くしてきたというのに不況になったらすぐにポイだと。ふざけるなっ!」
縄を握る手に力がこもる。ややあってから縄を握る手の力を緩めた。はあとため息は漏れる。
「もう生きる気になれないな」
よし、死のう。男が決心し、縄の輪になっている部分を首にかけようとした時、
「おじさん…死ぬの?」
背後から声が聞こえた。まだ幼さの残るその声は続けた。
「おじさん、死ぬの?」
男は遂に幻聴まで聞こえるほど堕ちたか。と心の中で思いながらそのままの態勢のままその声の問いに答えた。
「そうだね。もう生きる気力が湧かないかわね。死ぬしかないんだ」
「ふーん。そうなんだ」
幼い声は分かっているのかいないのか曖昧な声を上げた。
「それじゃあ、僕のお願い聞いてくれる?聞いてくれるんだったらこっちを向いてよ」
「お願い?一体どんなお願いだい?おじさんはもうすぐ死ぬから難しいのは御免だよ?」
男は変な幻聴だな。お願いだなんて。と考えながら思う。
これは私の本心から聞こえる声なのだろうか?私はまだ誰かに必要とされたいのだろうか?
「おじさん?」
「おっと、御免。それで一体何だい?」
はっと我に返り男は改めて振り返った。
「……………」
幻聴だと思っていたが目の前に男の子が立っている。
小学校低学年くらいの歳だろうか?銀髪を短く切り、所々着ている服は擦り切れていた。顔はくりっとした大きな目が印象的な可愛い顔
をしていた。目の色は髪と同じ銀であった。
「大丈夫。すごく簡単な事だから」
少年はにこっと笑った。しかしその笑みはどこか冷えた感情が見え隠れしていた。
男は思わず一歩身を引いた。身体の奥底から何かが訴えかけてくる。
逃げろ。
死より。
苦しい思いをすることになるそ。と。
「う、わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
男は悲鳴を上げ逃げようと踵を返した。今さっきまで死のうという考えは消えていた。
嫌だ。死にたくない。
男は荷物を置いて走り出した。
「逃がさないよ。お願いを聞いてもらわないといけないし」
少年は雪のように白い手を軽く掲げると、
「タラクス」
何かの名前を指を鳴らし呼んだ。
ブォンという音と共に人とは明らかに違う巨大な生き物が男の目の前に立ちはだかった。
「ひぃぃぃぃいいぃぃぃ」
男は止まろうと足を踏ん張った。しかし地面はついさっきまで降っていた雨のせいでぬかるんでおり男の足を絡めとった。
「タラクス。捕まえろ」
「グァァァァ」
少年の命令でタラクスと呼ばれた異形は動いた。雲に隠れていた月が顔を出しタラクスの全容が月明かりで浮き彫りとなった。
その姿は二足歩行するカメであった。しかし、背中の甲羅からは数十本のクリスタルだろう物質が突き出すように生えており、
腕は丸太のように太く指からは鋭く尖った爪があった。
「あっ、ああ」
前倒れになりつつある男は否応無くタラクスの手から逃れられない。光る赤い双眸が男を感情が見えない目つきで見る。
辺りにアンモニアの臭いが漂う。それは男の股間からであった。男はあまりの恐怖に失禁してしまったのだ。
少年はくすっと冷たく笑うと同時にタラクスの指が男の肩を掴んだ。
メキッ。ゴギッ。
骨の砕ける音が響く。男は狂わんばかりに声を張り上げた。
「タラクス。力を入れすぎだ。それじゃ殺しちゃうよ」
まるで子供を言い聞かせるような口調で少年は言う。
「グワッ」
言われタラクスは掴んだ指の力を少しだけ緩めた。それでも砕かれた鎖骨の痛みで男は掴まれたままのたうちまわった。
「たかが骨が折れたくらいでそんなに泣かないでよ」
少年はいい大人が呆れちゃうね。と肩を竦ませた。
男は涙で視界が歪んだ目で少年の方を見た。その殺気のこもった目を受け少年は気持ちよさそうに目を細め口元を綻ばせた。
「そんな目で僕を見ないでよ。おじさんもう死んでもいいんでしょう?だったらその身体もういらないでしょう……?」
近づきながら少年は言う。そして男の目の前まで歩み寄ると男と視線を合わせる。じっと男の目を見続けた後にっこりと笑う。
それは先ほどの冷たさの残り笑みではなく歳相応の笑みであった。しかしそれが逆に男にはこれ以上ないくらいの恐怖を与える。
「だから、その身体、僕に頂戴ね」
男から視線を移し、タラクスを見る。そして冷え切った声で一言。
「タラクス。殺れ」
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーー」
樹海に男の悲鳴が轟いた。その声に驚き鳥たちが一斉に飛び立った。
その日、また新しい犠牲者が出てしまった。
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